Share

第90話 彼女の汗の匂いを好きになった夏は、まだ終わらない

last update publish date: 2026-11-01 21:31:00

第90話 彼女の汗の匂いを好きになった夏は、まだ終わらない

 大会の翌日、陽菜は午前中いっぱい寝ていたらしい。

 昼を少し過ぎた頃に届いたメッセージには、『起きた。脚重い。お腹すいた』とだけ書いてあった。昨日は自己ベストを出し、目標には届かず、嬉しいと悔しいを両方抱えて帰った人間とは思えないくらい生活感のある文章だった。

『ちゃんと食べろ』

 俺が返すと、すぐに、

『今から食べる。悠真、今日暇?』

 と来た。

『午後なら』

『ちょっと会いたい』

 それを見た瞬間、俺は少しだけ考えた。

 昨日かなり疲れていたのだから休んだほうがいいのではないか。わざわざ外へ出てこなくても電話でいいのではないか。そういう考えが浮かぶ。

 でも、それを決めるのは俺ではない。

『どこなら楽?』

 そう返した。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第92話 屋台の匂いが多すぎて、彼女の匂いまで分からなくなった

    第92話 屋台の匂いが多すぎて、彼女の匂いまで分からなくなった 金魚すくいの屋台を離れても、頭の奥に残った重さはすぐには消えなかった。 陽菜の手はまだ握っている。隣にいることも分かっている。それなのに、いつもなら自然に拾えるはずの彼女の匂いだけが、人混みの中に沈んでいた。焼きとうもろこしの醤油、たこ焼きのソース、揚げ物の油、綿あめの甘さ、煙、汗、香水、制汗剤。別々ならまだ処理できる匂いが、今夜は全部同時に押し寄せてくる。「悠真、やっぱり少し離れようか」 陽菜が俺の顔を覗き込む。声はいつも通りだったが、さっきまでより明らかに心配している。「もう少し歩けば、休憩場所あったよな」「うん。川沿いの端のほう。屋台から少し離れるって地図に書いてあった」「そこまで行きたい」「分かった。でも、きつかったら途中で止まろう」「うん」 返事をしてから、俺は自分でも少し驚いた。 陽菜の匂いは分からない。 でも声は分かる。 聞き慣れているから当たり前だと思っていたが、人の声が多い場所でも、陽菜が話せばすぐ見つけられる。少し高くなる時、笑う直前に息が抜ける感じ、心配している時だけ語尾が少し柔らかくなる癖まで分かる。「何?」「声」「声がどうしたの?」「陽菜の匂い分からないけど、声はすぐ分かる」 陽菜は一瞬きょとんとしたあと、少しだけ笑った。「今それ言う?」「気づいたから」「私は前から悠真の声好きって言ってるのに、ようやくこっち側に来た?」「同じではない」「じゃあ何」「俺は声フェチじゃない」「知ってる。でも今、私の声で安心したでしょ」「少し」「じ

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第91話 浴衣の彼女を見た瞬間、匂いのことを忘れた

    第91話 浴衣の彼女を見た瞬間、匂いのことを忘れた 夏祭り当日、待ち合わせ場所へ現れた陽菜を見た瞬間、俺は珍しく匂いのことを忘れた。 正確には、匂いを感じなかったわけではない。 駅前はすでに祭りへ向かう人で混み始めていた。制汗剤、香水、日焼け止め、汗、駅近くの飲食店から流れてくる油の匂い。それらが普段より濃く重なっていたし、その中へ陽菜が近づいてくれば、いつものシャンプーとは少し違う匂いもした。 でも、それを頭の中で分けるより先に、目が止まった。「……」「悠真?」 陽菜が俺の前で立ち止まる。 淡い色の浴衣だった。派手すぎない花柄で、普段は高い位置で結んでいる髪も今日は少し低めにまとめている。見慣れない髪飾りまで付いていて、足元もスニーカーではなく下駄だった。「何その顔」「いや」「いや、じゃなくて。変?」「違う」「じゃあ何」 すぐに言えばいい。 そう思うのに、こういう時だけ変に考えてしまう。 似合ってる。 可愛い。 普段と違う。 どれが一番いいか考えているうちに、陽菜の眉が少しずつ寄ってきた。「悠真、今その沈黙かなり嫌なんだけど」「可愛い」 仕方なく、最初に出てきたものをそのまま言った。 陽菜が止まった。「……今、何て?」「可愛い」「もう一回」「何で」「聞こえたけど、確認したい」「可愛い」 今度は少しゆっくり言う。 陽菜は数秒こちらを見たあと、顔を逸らした。

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第90話 彼女の汗の匂いを好きになった夏は、まだ終わらない

    第90話 彼女の汗の匂いを好きになった夏は、まだ終わらない 大会の翌日、陽菜は午前中いっぱい寝ていたらしい。 昼を少し過ぎた頃に届いたメッセージには、『起きた。脚重い。お腹すいた』とだけ書いてあった。昨日は自己ベストを出し、目標には届かず、嬉しいと悔しいを両方抱えて帰った人間とは思えないくらい生活感のある文章だった。『ちゃんと食べろ』 俺が返すと、すぐに、『今から食べる。悠真、今日暇?』 と来た。『午後なら』『ちょっと会いたい』 それを見た瞬間、俺は少しだけ考えた。 昨日かなり疲れていたのだから休んだほうがいいのではないか。わざわざ外へ出てこなくても電話でいいのではないか。そういう考えが浮かぶ。 でも、それを決めるのは俺ではない。『どこなら楽?』 そう返した。 陽菜が指定したのは、大学から少し離れた小さな公園だった。駅前ほど人が多くなく、木陰もあり、近くにコンビニもある。長く歩かずに済む場所を自分で選んだらしい。 午後三時過ぎ、俺が着くと、陽菜はすでにベンチに座っていた。 昨日の競技用の格好とは違い、今日はゆるいTシャツとハーフパンツだった。髪も簡単にまとめているだけで、完全に休みの日の顔をしている。「早い」「悠真が遅い」「約束の五分前」「私は十分前」「それは陽菜が早いだけ」「昨日の大会の癖が残ってるのかも。時間より前に動く」「明日には戻る?」「多分、普通に五分遅れる」「戻らなくていい」 陽菜が笑った。 その笑い方を見て、昨日よりかなり楽になっていることが分かる。「脚どう?」

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第89話 嬉しいと悔しいは、同じ日にあっていい

    第89話 嬉しいと悔しいは、同じ日にあっていい 大会がすべて終わる頃には、空の色が少し変わり始めていた。 まだ夕方と呼ぶには明るいが、昼間の刺さるような日差しは少し弱くなっている。競技場を出る選手や観客が駅へ向かって歩き始め、入口付近にはスポーツバッグを持った学生たちの列ができていた。 陽菜は陸上部の仲間へ挨拶を済ませたあと、俺のところへ戻ってきた。「待った?」「そんなに」「嘘。二十分くらいかかったでしょ」「本読んでたから」「競技場まで来て本持ってきてるの、悠真らしいね」「待つ時間あると思った」「正解だった」 陽菜は少し笑い、そのまま俺の隣へ並んだ。 さっきまでよりは表情が柔らかい。ただ、完全に明るくなったわけでもなかった。自己ベストを出した嬉しさと、目標へ届かなかった悔しさの両方を持って帰ると言ったばかりだ。 それなら、どちらか一つの顔にならないのも当然なのだと思う。「駅まで歩ける?」「歩けるよ。脚は疲れてるけど、痛くない」「荷物持つ?」「大きいほうお願いしていい?」「いいよ」 スポーツバッグを受け取ると、思ったより重かった。「何入ってるの」「スパイク、着替え、飲み物、タオル、あと細かいやつ」「大会一日でこんなになる?」「陸上部は荷物多いの」「走るだけなのに」「今、全国の陸上部員を敵にしたよ」「言い方悪かった」「かなり」 そんなくだらない会話をしながら歩く。 大会直後にしては普通だった。 でも、競技場が少し遠くなった頃、陽菜が急に黙った。

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第88話 自己ベスト。それでも彼女は、最初に笑わなかった

    第88話 自己ベスト。それでも彼女は、最初に笑わなかった 自己ベストを更新したのに、陽菜はすぐには笑わなかった。 レースを終えてからしばらく、俺たちは競技場の外側にある日陰を並んで歩いていた。陽菜は「ちょっとだけ待って」と言ったあと、スポーツドリンクを少しずつ飲みながら、ほとんど何も話さなかった。俺も無理に言葉を足さない。結果が出た直後くらい、本人の中で感情が追いつくまで待ってもいいと思ったからだ。 それでも、沈黙の中で考えてしまう。 自己ベスト。 前より速い。 数字だけ見れば、間違いなく前進だ。 でも、陽菜が狙っていたタイムにはほんの少し届かなかった。 だから「おめでとう」と言えば、目標未達を軽く扱っているような気がする。「惜しかった」と言えば、自己ベストを喜べないような言い方になる。「すごかった」と言えば、また結果を外側から勝手に良いものへ変えてしまうかもしれない。 前の大会で、それはかなり学んだ。 俺がどれだけ良い結果だと思っても、陽菜が悔しいなら悔しい。 今回は、そこに嬉しさまで混ざっている。「悠真」 しばらく歩いたところで、陽菜がようやく口を開いた。「何」「さっき、分からないって言ったじゃん」「嬉しいか悔しいか?」「うん」「今は分かった?」 陽菜はすぐには答えず、近くにあったベンチへ座った。俺も少し間を空けて隣へ座る。「……まだ、半分くらい」「半分?」「自己ベストは嬉しい」「うん」「ちゃんと嬉しいの。それは嘘じゃない」「うん」「でも、目標の数字見た瞬間に、そっちも同時に見えた」

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第87話 彼女が走っている数十秒だけ、俺には何もできない

    第87話 彼女が走っている数十秒だけ、俺には何もできない スタートの合図が鳴った瞬間、陽菜は俺の知っている夏目陽菜ではなくなった。 もちろん、別人になったわけではない。けれど、さっきまで俺の前で「好きって言って」と頼み、少し怖いと笑い、日焼け止めの匂いを気にしていた彼女と、今トラックを走っている選手が、同じ人間なのにまるで違って見えた。 陽菜は自分のレーンを走っている。 最初のカーブ。前半は飛ばしすぎないと以前聞いたことがある。それでも、観客席から見ている俺には速いとしか分からない。陸上を何年もやっている人間ならフォームやペース配分をもっと細かく見られるのだろうが、俺にはそこまでの知識はなかった。 だから、ただ目で追う。 それしかできない。「行け……」 声が勝手に出た。 聞こえるわけがない。周囲にはもっと大きな声で選手名を叫ぶ人もいるし、トラックそのものが遠い。俺の声など陽菜には届かないだろう。 それでも言う。「陽菜、行け」 前の選手との差がどうなっているのか、一瞬では分からない。レーンが違うので、見た目の位置だけでは順位も判断しづらい。 俺は息を止めそうになり、途中で自分が呼吸していないことに気づいた。 走っているのは俺ではない。 なのに苦しい。 意味が分からない。 ホームストレートの反対側へ入る頃、陽菜の腕の振りが少し大きくなった。 あれが予定通りなのか、それとも苦しくなっているのか分からない。 分からないことばかりだった。 脚、大丈夫か。 ふくらはぎ。 昨日張っていた場所。 一瞬そこへ考えが向かい、俺はすぐにやめた。 今、それを考えても何もできない。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status